電車の中ではひたすら本を読む。
ぼうっとしていると
いろんなことを考えてしまって不健康だから。
考えてみれば、私は、ぼうっとすることを
いつも何より恐れている。
自分の思考を野放しにしていると
それはだいたい良くない方向に
ふらりふらりと行ってしまう。
きっとこれを「ネクラ」と呼ぶのだろう。
だからいつも、その時間に夢中になることを探し、
そこへ逃げ込む。
そうだ、逃げ込んでいる。
それは料理だったり、パソコンだったり、
洗濯だったり、音楽だったり、
そして仕事さえも、逃亡先の一つ。
となると、私の生活は「逃亡」の集大成なのだろうか…。
まあ、それでもいいや。
今は作文に逃げ込むのだ。
昨日、電車の中で読んでいた本は
私の好きな作家の作品で、
短編だったけれど、とてもあったかかった。
彼の作品は、いつもあたたかい。
私の優しいシェルター。
その話の主人公は、私と同じくらいの歳の男性。
彼が、奥さんと小学生の息子と3人で電車にのって
ぼけてしまったおばあちゃんのいる病院へ行く時間を
描いている。
電車は、彼が育った懐かしい町を通り、
心は息子と同じ小学生の自分へと戻っていく。
病気で死んでしまったクラスメートや
仲の良かった男の子、好きだった女の子、先生…
いろんな人の顔と、
当時の空気のにおいが蘇って、
今の自分と重なる。
ふと思い立ち、息子に頼んで、
小学生のときのニックネームで自分を呼んでもらう。
あの親友の顔を思い出しながら。
私は、本ばかり読んでいる子供だった。
デブっちょで、運動が苦手で、
存在しているのが恥ずかしいような気持ちで
いつもビクビクと暮らしていた。
でも物心ついたときからそうだったので、
べつに卑屈な気持ちはなかったと思う。
でも考えてみれば、本を読んでいるときは
そんな自分から解放されていたのかもしれない。
下校の途中にも、歩きながら本を読んでいた。
どんな顔して読んでたのかな。
電車の中で今、本を読んでいる自分と
そんな子供の自分を重ねてみる。
歳はとっても、きっと同じような顔をしているのだろう。
それを思ったら、
かなしみや、哀れみや、滑稽さや、
そんなもんが一気にごちゃ混ぜになって
なんだか泣きくなった。
結局、何も変わっていない。