女優の小林聡美さんが、そのエッセイの中で、
自分の寝起きの顔は、賢そうなパグに似ていて
それが結構気に入っている、
というようなことを書いていた。
彼女とは同世代で、聡美さんが金八先生に出ていたころは
私も同じく中学生で、
テレビの前で一緒に、金八先生の言葉に涙したものだ。
彼女はそのころから、聡明なしっかりした子の役で、
実際、そうだったんだと思う。
何年か前、そのエッセイを読んだとき、
ちょっと不思議な感じがした。
自分の寝起きの、それもパグに似てる顔を
いいと思えるなんて…。
きっと女優らしい洞察力と、客観性で
「おお、パグだ、それも結構賢いぞ、コイツは」と
感じたのだろう。
そんな彼女は、もう何かを「こえている」感じがして、
自分よりはるかに大人に見えた。
そのころの私はといえば、
鏡に映る寝起きの顔に、
昨日の疲れや失敗や、心の澱を見つけ出して、
再び自分を責めていたかもしれないし、
肌の調子をあげつらって
更なるブルーに陥っていた。
だけど、彼女みたいに自分をとらえてあげれば、
寝ぐせをつけて鏡の前に立つ朝のひとときが
どんなに柔らかくてあったかいものに変わるだろうか。
自分を愛して朝を始めなきゃ、なんにも始まらない。
あきらめる、ということと、受け入れる、ということは
とっても似てる。
だけど「受け入れる」ことの方が上級編だ。
何年もの間、私は「抵抗」と「あきらめ」の間を行ったり来たりして
自分で勝手に消耗していた。
やがて「抵抗」に疲れて
「あきらめ」が大部分をしめるようになり、少し楽になる。
でも、「あきらめ」に占領されてる自分なんて、とっても虚しい。
そこで人は(いや私は)
「受け入れ」という境地に、やっと至ることになる。
どうせなら「抵抗」も「あきらめ」もすっ飛ばして
最初っから「受け入れ」ときゃよかった。
10年くらい損した。
聡美さんは、子供のころから「受け入れ」の術を知っていた人だと
そう確信する。
彼女のたくさんのエッセイを読んでいると
そのことがよく分かる。
いわゆる自己愛というのとは違って、
ものすごくフェアに、自分をふんわりと愛して日々を慈しむ。
それは自然と形を変えて、まわりの人への愛になる。
彼女と友だちになれたらな。
きっとあのクールな表情で、
私はいつも怒られてることだろう。