父が簡単な手術をして
さっさと退院できるはずだったところが、
日増しに具合が悪くなったという。
おかしいなと検査してみたら、
縫い合わせたところがうまくくっついてなくて
今度は大々的に手術することになってしまった。
最近の手術ってのは、すごく簡単になっていて
軽いものなら、おなかにちょこっと穴をあけて
そっから遠隔操作でヒュヒュッとやるのだそうだ。
父の一回目も、そんな感じであっと言う間に終わり
お医者さんは
「とーってもうまくいきました」と
ニッコリ親指を立てたという。
なのに、なのに。
やっぱ医者にも器用、不器用はあるんだなあと思う、
医者選びって難しいなあ。
そういうわけで、今度はおなかをばっさり切ることになり
自分のミスに焦った医者は、緊急手術と銘打って、
普段はやらない早朝に
むりやり手術のスケジュールを入れ込んだ。
私のところに初めて連絡があったのは
この二度目の手術の前の晩で、
私は父が病気だったことすら知らなかった。
私には知らせなくていいと、
奥さんに言っていたみたい。
さっさと治って何食わぬ顔でいたかったんだろう。
手術の終わった日の午後、
何年ぶりかで父に会いに行った。
酸素マスクに、体につながれた何本かの管、
結構見慣れた光景だ。
すごく苦しそうにしていて、
さすがに不器用な医者を恨めしく思った。
奥さんが「どっか苦しい?」と効くと
「全部苦しい」と息も絶え絶えに言う。
私もかける言葉もなく
「災難だったね」と言った。
父は麻酔でもうろうとしながらも
指を2本立てて「2回も…」と訴えた。
あまり苦しそうで
ただそばにいても仕方なさそうなので
「じゃあ、また来るから」と言うと
片手を上げ、手の平をパカッと開いて、
クールにバイバイの仕草をした。
あんな苦しいのに、
まったくパパらしいなと思いながら帰る。
小さい頃、私は父親に嫌われていた。
幼稚園のとき、友達の家の二段ベッドで遊んでいて
上から降りようとしているところで友達に背中を押され、
私は真っ逆さまに落ちた。
ただ落ちればよかったものを
二段ベッドのはしごに足がひっかかり
そのまま振り子のようになって
オルガンの角で鎖骨をボキッと折った。
わんわん泣きながら、
その友達のお母さんに手を引かれ
家まで歩いて帰ったのをはっきり覚えている。
玄関口に母親が出てきて
「ばんざいしてごらん」と
私のTシャツを脱がそうとした。
忘れもしない、
気に入っていたオバケのQ太郎のTシャツ。
鎖骨の折れている私は腕がまったくあがらず
痛みでさらに泣きわめいた。
母親は裁縫のでっかい裁ちバサミを持ってきて
オバQをど真ん中からジョキジョキ切り、
私はもうショックとパニックで
気が狂ったように泣いた。
そのまま近くの救急病院に行くと
「あー折れてるねえ」とあっさり医者に言われ
「お母さん、ちょっと外に出てて」と
母は言われたそうだ。
そっからはよく覚えていないのだが、
医者は整体のようなワザで「オリャッ」と
折れた骨をだいぶ元の位置まで戻したらしい。
私はニワトリがしめられたような声
(聴いたことないけど)を出したとか出さないとか。
かくして私は、
亀の甲羅のような頭と腕だけ穴のあいた
ベストっぽいギブスをされて
病院のベッドで数ヶ月寝たきりになってしまった。
夕方になって窓の外が群青色に染まっていくと寂しくて
シクシク泣いた。
ある夜、母親が手製のお弁当を消灯時間目前に持ってきて
私の食べ残したタコウィンナーを
真っ暗なベッドサイドで慌てて食べてる光景が
超寂しい思い出として、今も脳裏に焼きついている。
なんかママってドジ。
ずっと長い間幼稚園を休んで、
私は家にやっと戻ってきた。
しかしギブスを外した体は
数ヶ月の寝たきり生活ですっかり肥えてしまい
私はれっきとした肥満児としてカムバック。
ここからの私の人生は大きく変わってしまった。
あのお友達が私の人生を変えたのだと
真剣に思い続けた。
幼稚園のおゆうぎ会では
もちろんお姫様の役なんぞ手が届かないし、
小学校では格好のいじめの標的になった。
円陣に囲まれて男の子達にいっせいにボールをぶつけられたり、
校庭をのろのろ歩いていると
女の子からいきなり飛び蹴りをくらったり
髪の毛を引っ張られたり。
よく泣いて帰ったけれど、
翌朝にはなんだか忘れてまた学校に行っていた。
バカだったのか、やっぱり。
母はそんな私を全面的に受けとめてくれたけれど
父は太った私をあからさまに嫌な顔で見た。
やせっぽちで小さい妹を
私より明らかにひいきにしていたし、
海外にいることの多かった父は
たまに会うたび「また太ったんじゃないか?」と
苦々しく言った。
そう言うときの父親の、汚いものを見るような目が
つらかったし、
「お前のせいだ」と言って母親を責めるのが
もっとつらかった。
友達からいじめられることも、
父親から嫌われてることも、
全部は私が太ってるからで、仕方がない、
そんなふうにあきらめていたと思う。
恨みを持つとか、そういう感情はなかった。
ただ、毎日がちょっとだけ哀しかった。
私は、他のみんなより劣っている存在で、
物語の中で言うなら、召使いとかそういう感じ。
みんなは貴族やお姫様や、
上のランクの人たちで、
だから、せめてみんなに嫌われないように、
なるべく目立たずに、感じよくいなければ、と
幼い私は決心していたように思う。
だからいじめられても、
その子たちの前ではいつもふにゃっと笑っていて、
それでもいつか
もうちょっとしあわせになりたいなあと思っていた。
こんな後ろ向きで、劣等感に塗り込められた幼少期は、
人間の軸を作ってしまうのだろうか。
自分が他の人たちよりどこか劣っているのはないか、
みっともないのではないか、という恐れや不安は、
今でも、どうしてもぬぐい去ることができない。
雑踏で鏡に映った自分を見ることが怖い。
何かうまくできないことにぶつかると
やっぱりなあ、と思ってしまう。
そんな、でっかい箱にみっちり詰まったトラウマを
押し入れの奥に押し込み、
口笛を吹いて生きている。
まったくうまくいかないけど。
父は昔、ほんとに変わり者で、
それは青年期を外国でずっと過ごして、
つまりガイジンだからだ、と幼い私は理由づけていた。
子供嫌いを前面に押し出していたし、
子供を二人作ったのは「社会的ステイタスを得るため」と
子供たちの前ではっきり言った。
「子供くらいいないと、社会で信用されないから」と。
私たち姉妹のどちらかが風邪を引いてコンコンしていると
「うつる!あっちへやれ!」と
母親もろともゴミのように追いやられた。
こんな父親に一家のつらよごしの肥満児が
愛されるわけもない。
年頃なると私は背が急激に伸びて、
肥満体から、ただの太めに昇進した。
だけど父との確執は強固になるばかり。
父の頭に白髪が目立ち始めると、
「お前たちに金を吸い取られて、
俺の人生は台無しになった」と、よく言われた。
大学生のある朝、
私がダイニングの父の席に座ってお化粧をしていたら
起きてきた父が突然キレて、どなり飛ばされた。
まあ、こんなこともしばしば。
でもこの日は、そんな父に今度は母がキレて、
母がキレるなんてのは生まれて初めて見た光景だったので
すごく驚いた。
「どうせ私のことも嫌いなんでしょっ!」
そう母は言った。
この発言は、かつて確かに母と父は愛しあっていて、
今や「ラブイズオーバー」な感じを的確に表現していて
私はとっても哀しく、
平和なはずの朝がめちゃくちゃになった。
こうして書いていくと、
マジで人間が崩壊しているような父ではあるが、
最近になって、
あのときの父の狼狽とか不安とか、
いろんなものが理解できる。
社会の荒波にもまれて必死に働いてるっていうのに、
ブラブラしてる(ように見える)娘たち、
なんだか天然でかみ合わない妻、
どんどん老いてゆく自分。
私がもし今、何らかの理由で働けなくなったら
蓄えもないことだし、
すぐに住む家も食べるものもなくなって
のたれ死にするだろう。
そこにもし、お荷物の家族が3人いたとしよう、
その重圧と不安は容易に想像できる。
そりゃ多少あばれても仕方がない。
かわいそうだったなぁ、
どうもすいませんでした。
先日、少しは元気になったかと、
父の見舞いに行くことにした。
大きな本屋で、
父の好きな車や旅行の雑誌を何冊かと
「ノルウェーの森」の洋書版と
「モリー先生との火曜日」の原書を買った。
それからトランジスターラジオも。
病室に入ると、
父が丸まって横たわっていた。
ひからびた青虫みたいに。
「やれやれ」と心で言ってみる。
母が病と闘っていた頃から、
大きく揺れる感情を抹殺することができるようになった。
スイッチをプツンとオフにするように。
管はだいぶ外されていて、
とりあえず快方へ向かっているようだ。
テーブルの上に「まみちゃんのおやつ」とメモがあって
クッキーが2枚置いてあった。
パパの奥さんだ。
忘れないようにすぐにバッグにしまう。
ふとテレビの上を見ると
派手なジャケットとネクタイ姿で
得意げにステージで歌う父の写真!
なんじゃこりゃ?
「それね、11月に歌謡ショーに出てね…」と始まる。
なんでも、歌謡教室に夫婦で通っていて、
教室から選抜メンバーが年一回のショーに出るのだという。
「俺、2年連続出てるんだ」と自慢げ。
そこから父のおしゃべりは止まらず、
まだ力のない声でえんえんしゃべっている。
「もう散歩もしてるんだ」と言う父と
点滴をガラガラ引き連れて、
そのおしゃべりを聞きながら
一緒に病院内を何周もした。
歩きながら、
私はこの人のことをあんまりよく知らないんだよなあと
思う。
父は海外の行き来が多かったし、
とにかく親子のコミュニケーションとかそういうものとは
縁遠かったので、名ばかりの親子である。
父と一番長く一緒に過ごしたのは、10年ほど前のことで、
母が亡くなった直後、
父が一人で住んでいたシカゴの家に遊びに行ったときだ。
あのときは2泊くらいの小旅行に連れていってくれたり、
楽器屋で「何でも好きなのを選んでいいぞ」と
ギターを買ってくれたり、
動物園にも行ったりした。
晩ご飯には、すき焼きなんかも作ってくれて、
なんか初めてお父さんっぽかった。
小さい頃は「太る」と言って、
私の食べる様子に目を光らせていた父が
「もっと食べて太れ」と言って
お皿に食べ物を盛ってくれる様子は
かなり衝撃だったといえる。
私が日本に帰る日の朝、
「ハイヤーが来るから、空港まで乗っていけ」と言い置いて
父は会社へ行き、
時間が来て外へ出てみると
背広を来た黒人が黒塗りのリムジンの前で待っていて
仰天した。
まったく、はちゃめちゃな父である。
病室でひととおり父のおしゃべりを聞いて
そろそろ帰ろうとコートを着ていると
「そこのクッキー持ったか?」と言う。
「もうカバンに入れたよ」と私が答えると、
「やっぱりお前だよな」とニーッと笑う。
名ばかり親子と思いきや、
わりと私のこと知ってる父、
そんな父の笑顔も、なんだかすごく懐かしい。