近所に住む友達と、朝のお散歩。
彼女は川の上流、私は下流に住んでいて、
お互いにむこうへ歩いていって
適当なところで会って、
そしてまた川沿いを何往復かしておしゃべりする。
そんなことをたまにやっている。
彼女は私が以前住んでいたアパートの下の階に住んでいた女性で
偶然にも歳が一緒だった。
きちんとしたご両親に育てられて
学生時代まじめにきちんと勉強して
精神的バランスに優れていて
人間そのものが上品である人。
私の古い親友たちと通じるものがあって
一緒にいるとリラックスできる。
二人とも引っ越しをしたのに、
また偶然近所になった。
昨夜、彼女から突然メールが入って、
「明日、お花見しない?」と誘ってくれた。
木々や花にあふれた川沿いの細い道は
都会の中にあるにもかかわらず、
どこか田舎に来た気分を味あわせてくれる。
冬の間は、うっそうとした木立の道だったけれど、
新芽が芽吹き、野草がさまざまな花をつけ、
その彩りといったら息がつまるほどだ。
桜は満開で、少しだけはらはらと花びらを風に舞わせ、
静かに佇んでいる。
今日という日以外に一体いつ?というくらい
絶好のタイミングだった。
彼女も私も、桜を眺めながら上を向いて歩いていたので
今日はどっかですれ違ってしまった。
私は彼女の家の近くまで、
彼女は私の家の近くまで歩いてしまったところで
あれ?となり、
真ん中の公園で待ち合わせ。
彼女は犬のマリアを連れて、
コーヒーをポットに入れて、クッキーも持ってきてくれた。
そういうことをするのが私じゃなくて、
私のお友達、というところも、
親友たちとの構図と一緒。
かわいい柄のナフキンからは
ガラスのコップが2つ。
彼女がコーヒーにコンデンスミルクを入れてくれて
私たちのお花見が始まる。
マリアは人懐っこくて
私のひざの上でお腹を見せたり、
リードをかじかじしたり、
うとうとしたりして、
私の幸せ度はさらに増す。
犬はいーなー、犬、ラブ。
クッキーをコーヒーに浸して食べながら
のんびりと他愛もないおしゃべりをする。
彼女の息子のこととか、犬のこととか、
私たちの将来について。
私は老後、家庭菜園で自給自足をして
足りない分は近所のマックとかのキッチンでバイトして
人間の原点に立ち戻った地味生活をするつもりなのだが、
なんと彼女も同じような考えらしい。
今のこの、情報とモノにあふれた過剰供給の生活によって、
本来なら自分の精神から発露する貴重なものを
どれだけ失ってることだろう…。
ああ、もったいない。
私たちは、のんびりとしゃべり、
ときどき、風に揺れる桜や、足もとの草を見つめて黙る。
ポットのコーヒーを全部飲み干してしまうと、
心も満タンにチャージされた。
彼女は、このお散歩の時間のことを
「素朴で心が喜ぶ遊び」と言う。
まさに。
最近「歳とって分かることっていっぱいあるなー」と思う。
そんなことを言うのは、
歳をとった哀しみを紛らわす慰めだと思ってたけど、
どうやらそうでもないらしい。
「ほんとの人生はこれから」なんてのも、
年寄りの強がりだと思っていたけど
これまたそうでもないらしい。
ちょっとくらいシワができても、
どっと疲れやすくなっても、
「これからやっと…」の珠玉のプレゼントは
たくさんあるみたい。
そんなことをゆらゆら思いつつ、
彼女とバイバイをして
桜の木立をのんびり帰る。
桜は不思議だ。
その景色の中に包まれていると
生きてるんだか死んでるんだか、分からなくなる。
私はもう死んでいて、あるいは死にかけていて、
私の魂だけが、このうすもも色の光の中に漂っているような
そんな気持ちになる。
どこへ行こうとも、行くべきとも、考えなくていい。
ただ漂い、その浮遊感を味わう。
神様がくれた、句読点、空白のとき。