南アフリカのマラウィという国の
7歳の女の子とちょっとした交流がある。
彼女からの手紙には、いつもちょこっと絵が描いてあって、
私がプレゼントしたシールが1個だけ貼ってあったりもする。
でもその絵はどこか2〜3歳の子が描くような絵で
人なのか虫なのかよくわからないものが
細く頼りない鉛筆のタッチで描かれている。
彼女の写真を見ると、小さくてやせていて、
いつも真剣なまなざしをしている。
笑ったらどんな顔なのかなあと思う。
現地の子供たちは家の手伝いなどで
勉強したり遊んだりする時間がとれない。
日本の子供のように自由にお絵描きをする時間など
とうていないのだろう。
ちなみにマラウィでは4割ほどの人が
中度から重度の栄養不良状態で、
半分以上の人が字を読めず、
平均寿命は50歳に満たない。
当然ながら彼女も英語を書くことができないので
代わりに大人が代筆して、私に送ってくれている。
マラウィの小さな村の小さな女の子には
日本という国はどんなふうに映っているのかな。
進んだ国のようではあるけれど、大きいのか小さいのか
どんな風景が広がってるのか見当もつかないだろう。
以前の手紙には、
「私の家では大豆やナッツなどを作っていますが、
マサミの畑では何を作ってるんですか?」と質問があった。
今年3月の彼女のお誕生日に送ったプレゼント
(といってもあまり大きいものは送れないので
キャラクターの文房具とかシールとか、いつも小さなもの)
のお礼に、先日また手紙が届いた。
とにかくマラウィは遠くて、
手紙のやりとりにも長い時間がかかってしまう。
今回の手紙の絵は、
まあるい顔に目と口がしっかり描かれてあって
どうやら女の子のようだ。
ボタンのついたスカートをはいてて、かわいい。
でもあまりに小さい絵だったので
あやうく見過ごすとこだった。
よかった…着実に成長してるみたい。
手紙には、
私のプレゼントの髪留めをつけると
お友だちの中でも目立って嬉しいとある。
そして、今回の日本の震災で私が命を落とさなかったことを
家族みんなで、神様に感謝したと書いてあった。
亡くなった多くの人たちの魂が
幸福に眠れますようにと、手紙は結んであった。
そうだ、私は偶然にも生き残ったのだ。
そのことをこれからも忘れてはならない。
この命を、あと数十年、いや数年かもしれないけれど、
何としよう…。
まずは今日を感謝して誠実に生きるしかない。
遠い国から届く彼女の手紙を読むたび、
国境をこえて、まったく違う世界が存在することの現実を
いやおうなしに感じる。
宇宙から見た地球は、どこにも国境線なんか引かれてないし、
海の青がまぶしい、大気圏に愛おしく包まれた
美しい1つの星なのに。
その土地の気候や、長い歴史的背景が
国と国との大きなギャップを生んでしまったことは
今やどうすることもできない。
日本人は地球という星の一員にすぎず、
たまたまベターなロケーションに生まれ落ちたことを意識すれば
なんとまあ今日という日はありがたく
謙虚な気持ちで朝を始められることだろう。
銃声が聞こえることもなく、干ばつもなく、
明日を生き延びるための食べ物の心配もない。
悲しいニュースや、くだらないと思われる出来事が
この国にあふれているのは、
要するにみんなヒマなのだと私は思う、平和すぎて。
毎日、生きることに真剣に向き合い、
太陽がのぼること、水や今日の食物があること、
家族が笑っていること、
それらのことに感謝する日々であれば、
小さなことにくよくよせず、
大きな心で朗らかに暮らせる。
時代の流れもどんどん速くなって、
キラキラ目立つものにばかり目を奪われて
目の玉はいつもキョロキョロして、
私たちは自分の手の中にあるもの、
自分が立っている地面、
そんなものにあまり目を向けなくなった。
今の先進国の人達は、
人間の生理にあった適正なテンポってものを
ちょっと逸脱してないか?
何を追いかけて何に追われているのか、
もう分からなくなっていると見た。
思い描こう、アフリカの大地を。
雲がゆっくりと泳ぎ、同じ早さで歩く象の群れ…。
私は、ゴーイングマイウエイ。