昔、高校野球がだいきらいだった。
自分がまだ彼らと同じ世代の頃だ。
同世代の子たちが高校野球の応援をしているのを見ると
無邪気な彼らが不思議でならなかった。
人の応援をしてる場合か? 自分は一体これからどうしてゆくつもりなのだ?
目標はあるのか? 君が今磨きつつある能力は?
無邪気に人の才能を喜び賞賛する君たちの、なんと呑気なことよ。
そう思って、いらだっていた。
そのいらだちは、つまり、自分に対するいらだちだった。
何の夢も目標も見い出せず、だらだらと時間を湯水のように費やしていく日々。
若さとは永遠のもののように思っていたから。
正確にいうと、若さという概念すらなく、
やがて訪れる秋や冬を知るよしもなかった。
先日、大学時代の親友夫婦の息子が高校野球の京都大会決勝にまで進み
球場にいた夫婦のLINE実況を見ながら、みんなで応援した。
若くして目標を持ち、情熱を注ぎ、自らのスキルを切磋琢磨して輝く日々。
今はそれを両手を広げて愛おしく思える。
当の自分はというと結局、
人生の夏をただ、のらりくらりと過ごして終わらせてしまった。
後悔、先にたたず。
それでも、輝くものを素直に愛おしく思えるほどには大人になったようだ。
自分が「もし親だったら…」と思える歳になったからに他ならないのだけど。
残りの人生を自分はどのように生きてゆくのだろう?
ふとそんな疑問が浮かぶ。
ここまで磨きあげたものは何ひとつなく、
もはや焦りもジェラシーも消え失せて、
自分にできそうなことをちびちびとやって
けがをしないようひっそりと生きている。
物欲もなく、食欲もだいぶ減って(やっと人並み!?)
あるのは、ただこんこんと眠りたい欲だけ。
とここまで書いて、
老いるということは、こういうことかと改めて思った。
ひょっとすると、まだ少し残っている若いエネルギーや体力を放置して
またも人生の時を湯水のように費やしているのかもしれない。
まったく情けないやつだ。
私の中に今残っているであろうものは、
ものを見つめる視線。
テーブルの上で、氷だけ残ったアイスコーヒーのグラス。
静寂をより静寂にするセミの声。
文句を言わず一日じゅう回り続ける古い扇風機。
ここに生まれるものは静かな心のさざ波。
さあ、何をつくる?