元旦に「潔く生きる」宣言をしたものの、
潔いって何だろう…なんて
今さらながら思ってしまう。
常に自分の気持ちをクリアに見定めることか、
あれこれ逡巡をしないことか、
女々しくないことか…。
田口ランディさんの小説を読んでいたら
自閉症の少年についてのくだりで、
こんな主旨のことが書いてあった。
すべての感覚を閉ざして外界から孤立した状態というのは、
実は、それこそがパーフェクトなその人格の世界であって、
外の世界を見る、聞く、そして感じるということは、
そのパーフェクトな世界に「異物を取り入れること」である…と。
これを読んだときは、
雲の間から一筋の光が差したような衝撃度で、
すごく救済された。
私はもともと未知のものに対する好奇心がゼロで
そこへ向かっていくことには多少の恐怖さえ感じる。
テレビも、報道とドキュメンタリー以外ほとんど見ないし、
雑誌なども、向学のために「努めて」のぞくだけ。
なぜならば、それはすべてが「コマーシャル」だから。
出ているタレントや役者、洋服、化粧品…
すべてを売るためのコマーシャル。
芸術性だけを目指したドラマなんて、昨今ほとんどない。
そのコマーシャルの中で、
こういうものが「いい」、こうでなければ「いけない」という価値観が
大衆に無意識のうちにすり込まれていく。
それがすごく怖くて、近寄れない。
たぶん外界の刺激を過度に吸収してしまうからだろう。
テレビを一日中つけて適当に観ながしている人たちを
すごいなぁと思ってしまう。
私の場合、いかなる質のものであれ、
「こ、これは…」とか「一体その意図するところは…」とか
はたまた、出ている役者やタレントの心中まで察して
頭がいっぱいになり、固まったままテレビを凝視してしまう。
だけど、テレビに限らず、
さまざまな異物をとりいれて日々を送ることこそが
人生というものであるのだろう。
不純物をふんだんに含んだ異物の中に
案外みっけもんがあるのかもしれない。
私にはそれがうまくできなくて、ときどき哀しい気持ちになる。
山本文緒さんの鬱病闘病日記を読んでいる。
鬱病による発作が起きることを除けば
彼女がおちいっているスパイラルは私も同じだ。
「普通に」生きていくことができずに
多くの人が同じようにもがいている。
だからといって、安心するとか、慰められるということはなく、
私はやっぱり「甘えている」と思う。
タイタニックがまさに沈没せんとするとき、
鬱状態にいた乗客は一人もいなかっただろう、という説に
深くうなずいてしまう。
必死に生きる、ということが希薄になった現代。
例えば今必死に働かなければ明日の食糧もないとか、
子供が死にかかってるとか、
そんなときに、今日はダルいとか、この人生の意味は何だろうとか
言ってられないし。