大学のクラスの担任で、ゼミの教授でもあった先生が
定年退職されることになった。
先生からいただいた年賀状には、
その最終講義の日にちと時間が書かれていて、
“Feel free to sneak in, and doze off.”
(そっと入ってきて、居眠りでもしたら?)と
書いてある。
いかにも先生らしくて笑ってしまう。
先生はシニカルだけれど、
温厚で優しい人だ。
最終講義の論題は「違うことバンザイ!」。
学生のとき、同僚のアメリカ人の先生が
“He is so unique”と言っていたのを思いだす。
ユニークっていうのは、つまり、
すごく個性的だということ。
なにせ、国際経済学を専攻したのもかかわらず
銀行員をやめて音楽に走った私とか、
芝居に人生をかけるクラスメートとか、
そんな変わった生徒たちを
いつも心から応援してくれている先生だ。
学生に混じって教室に入り込むことに
ドキドキしていたけれど、
今日は他にもゼミのOBや先生のお仲間など
年配の方もかなり来ていて
取り越し苦労だった。
大きな教室に入ると、
教壇に小柄な先生がちょこんと座っている。
先生とは同じ町に住んでいて
ばったりお会いすることもあり
決して久しぶりではないのに、
教壇にいる先生を見て
すごく感極まってしまった。
今にも涙があふれそうになって
ひとり慌てふためく。
私は一番後ろのドアからそーっと入ったのに
先生はすぐに気づいてくれて
満面の笑みで手を振ってくれた。
あの頃の先生の授業をどれほどきちんと聞いて
ちゃんと理解していたのか、
はなはだ怪しいところだが、
先生が最初の授業で話してくださった話は、
そのときの教室の風景や
先生のネクタイの柄まで思い出せる。
「富士山の頂上にコーラの自動販売機があったとして
そのコーラが500円だったとするよね。
でもそれを高いと思ったらダメなんです。
そういう勉強をこれからします」
この概念は、今でも私の中で息づいていて
いろんな場面でかなり応用をきかせている。
世界で起きている様々な事象を
いつもどこか冷静に見つめることが
できているかもしれない。
最終講義が始まる前に、係の方が
「先生は、わが大学が生んだ偉大なる経済学者です」と紹介する。
私はとても誇らしい気持ちになり、
小柄でニコニコしている先生が、威厳に満ちて見えた。
ただ、今日の最終講義がもしかしたらとても難しくて
せっかくの講義をちゃんと理解できなかったらどうしよう、
そんな不安はどうしようもなく膨らんだ。
けれども結論から言えば、
先生の話はとても分かりやすく、
興味深いものだった。
私の隣の学生が、途中でこっくりこっくりと
居眠りを始める。
私にとっては最後の、貴重な講義だけれど、
彼にとっては、
これから目の前に用意されている無数の講義のうちの
一つなのだろうなと思う。
他の学生達にも目を走らせると
ただぼーっとしている若者もちらほら。
きっと25年前の私たちの姿なんだろうな。
頭の片隅でデートやバイトのことばかり考えて
時間を湯水のように浪費していた。
未来は、そのうちきっと何かの形となって
勝手に目の前に現れるもののように感じていた。
そして未来は、
そこまで歩いていった者にしか分からなくて、
誰かが先回りして教えて
理解できるようなものではないのだ。
先生の最終講義を聞き終えて、
雨のなか家路につく。
高校から通った懐かしい道をひとり歩く。
なんだかとっても複雑な気持ちで
心の着地点が見つからない。
ふと、今日最初に教壇の先生を見たとき
なぜ泣きそうになってしまったのか、思い当たる。
私はたしかに、あれからの20数年を生きてきて
今ここにいる。
今日、変わらず教壇にいた先生の姿を見て
あのときの私と今の私がしっかりつながって
その年月が目の前にはっきり姿を現した。
ときどき、眠りながら生きているように思うこの頃。
生きている感覚がすごく希薄で、
同時にいつも得体の知れない不安にとりつかれている。
戻らなくてはいけない場所がだんだんぼやけていって
淡い哀しみが膨らむ。
だけど、目をこらしてみれば、
ずっと変わらずそこにある灯台が
ちゃんと光を放っている。
ひとつじゃなく、いくつも。