土曜日の昼になると、その人はやってくる。
ピンポーンとチャイムを鳴らし、
私が「はい」とインターフォンに出ると
いきなりしゃべりだす。
淡々と、静かな美しい声で。
「この世は少しずつ悪い方向へ向かっていますね
神の救いは訪れると思いますか?」
何しろ一方的に話しだすので
さえぎる機会がない。
いつだったか、
「聖書という書物をご存知ですか?」
と聞かれたので
「はい、一応キリスト教の学校に通っていたので」
と答えると、とてもうれしそうにして
今度は、
聖書のあの箇所にこれこれこういうことが
書かれていましたよね、ご存知ですか?とくる。
今は教会に通っていないし、覚えているわけもなく、
私は困ってしまう。
でも私は「話のわかる人」とみなされて
彼女は毎週やってくる。
そしてインターフォンごしに5分くらいしゃべって
礼儀正しく帰っていく。
「世の中は終わりに向かっているのです、
でもこの終わりというのは
人類が滅亡するということではないんです。
もともとこの世は人類が繁栄していくために
神が創られたもの、
そんなことは決してありません」
そうか、よかった。
と安心してしまう。
「終わりとは悪の終わりです。
誠実に生きてさえいれば、神は必ず恵みを授けてくれる、
ヤマカワさんはそう思われませんか?」
少し考えてから、
「さあ、それは一概には言えないと思います」と答える。
がんばっている人が必ず酬われるのなら
人の人生はもっとシンプルだ。
でもこの人と何回か話しをして思うことは
彼女がなぜこんなことをしているのか?ということだ。
いわゆる布教活動のボランティアだと思うのだが
インターフォンごしに彼女と私が
この世の終わりや神の恵みについて語ったところで
一体何になると言うのだろう?
もし本当に世界の平和や悪の根絶に寄与しようとするなら
もっと現実的な動きをした方がいいのではないかと
毎回思ってしまう。
私はデスクの上の仕事を中断しているし、
彼女と話すことで
机上の空論をしている虚しさに襲われるし、
そんなことより多くの人は日々の生活でめいっぱいで、
結構大変なのだという気持ちがむくむくしてくる。
私は、神様を心の中にそっと大切にしている。
私の中の神というものはもっとプライベートな存在で
私の生い立ちやモノの考え方、心の動き方を
ちゃんと知っていてくれて、
よりそうように共に生きている。
どうやって私の神様とコミュニケーションをとるかは
私しか知らない方法だし、
きっと誰にとっても心の中にそんな存在があるはずだ。
それを神と認識するかどうかは別として。
とても幸福な瞬間や、心が澄んで清々しいときは
神様の笑顔が見える。