最近、めっきり英語を使わなくなって
もともとたいしたことなかった英語と
訣別することにした。
薄れかけたボキャブラリーで悪戦苦闘して恥をかきたくない、
という単なる見栄。
ならば「私は英語がしゃべれません」と言い切った方が
ずっと楽だ。
とはいえ以前とは違って今の暮らしでは、
実際、英語との接点もほとんどないのだ。
そういえば先日、TOEICの点数が300点も下がった夢を見た。
まだ別れを引きずってるか…。
大学生の頃、私の友達はほぼ9割が帰国子女で
英語を話すことは、お茶のかわりにジュースを飲むくらい
ごく自然だった。
みんな洋楽を鼻歌で口ずさんでいたし、
気づくと合唱になってたりもして、
ずっと日本育ちの私は、
そんな彼らの中に違和感なく混じることに憧れた。
マイケルは、そのシンボルのように、
80年代の私の青春のてっぺんに
きらきらしていた。
English-Speakingの人たちの世界に少しでも近づいて、
いつか自分も同化したいという思いを
マイケルは強烈に、かつ魅惑的に、
私の心に焼き付けていた。
私は英語に、恋をするくらい夢中になった。
先日、久しぶりにスリラーのノーカット版のPVを観ていて
そのことが雷鳴のように頭に蘇ったのだ。
若かりし日の私の、憧れと、希望と、
根拠のない自信、そして少しの不安が
そこにはあった。
夏の夕暮れ、海岸で海風に吹かれてるみたいな感触。
少し体がぴりんとするような…。
若さというのは、
こんな憧れの気持ちで生成されてるのかもなあ…。
老いるというのは、
現実を見すぎてしまうことだ。
その老人(含む私)の見ている現実というものに
たしかに間違いはないかもしれない。
だから何だっていうんだろう。
現実なんて太古の昔から存在して、
8歳の子供にも、20歳の若ぞうにも、40歳の中年にも、
平等にそこにある。
そのおいしいとこを少々過大評価して、
おいしくないとこは大胆に無視する。
そしてとにかく、今日一日を朗らかに生きる。
子供や若者は、それを自然にできる素質を持っている。
大人になると心に不純物が混じって
その素質が薄まっていくのかな。
スーパースターというのは、
そんな人の心に瞬時にして魔法をかけ
恋するような世界へ導く力のある人だ。
マイケルが死んで、改めて痛烈に思う。
さっき街でマイケルの歌が聴こえてきて、
それは声だけなのに、
マイケルの優しい微笑みが、この目にはっきりと見えた。
歌というのはこういうものだ、と思ったら
泣きたいような気持ちになった。
すごくシンプルで愛にあふれたヒント。